T-Kid170は生きた伝説であり、グラフィティ文化の中心となっている人物です。ブロンクス出身の彼は、ペイント・ワークショップの仲間と共に、行動して創造するライフスタイルを確立しました。
全ての始まりは近所の壁に自分のグラフィティ・ネームを書き記したこと。 やがて壁画や地下鉄も手掛けるようになりました。それからはすべて運命と意志のままに、世界のどこにいても、情熱のままに描いています。T-Kidが自らのストーリーを語ります。45年間にわたるバーナー、車、グラフィティ、フレスコ画、そして壁画の物語です。
T-Kid170 is on Instagram: https://www.instagram.com/tkid170/?hl=fr
ブロンクスで育ち、グラフィティ・アーティストになったいきさつを教えてください。
ブロンクスで育ったというより、俺はいつもブロンクスのストリートにいたんだ。70年代当時のブロンクスには多くの問題があって、ギャングもいた。
子供の頃、ブランコでアクロバットをして目立ち、「ブランコのキング」と呼ばれるようになった。ある日、遊び場の壁にキング13と文字をペイントしたら、後で近所のギャング連中がやってきて「俺たちの縄張りで文字をペイントしたいならギャングに入れ。」と言われたんだ。俺は彼らの縄張りだとは知らなかったし、彼らからは「お前がブランコでアクロバットをするのを見たよ。クールだな」と言われ、俺は殴られずに済んだのさ。
それからキング13とペイントするようになった。1973年のことで、当時13歳だった。その後ギャングを抜け、ハーレムのレネゲートでセン102と書くようになった。そこにはスモーキー、ディモンド・デイブ、ダンコやスライ108がいた。
レネゲードには2年間所属したが、1977年に銃で撃たれて、もうギャングと関わるのは、やめようと決意した。グラフィティが大好きだったのでT-Kidの名で再出発した。ビッグTと呼ばれていたので、そのTを使うことにした。Kidは、ギャングの中ではいつも俺が一番若かったから。それでT-Kidとしたのさ。170は俺が住んでいた通りの名称だ。
グラフィティのおかげで俺は街を離れることができた。トンネルで描くことに夢中になり、すぐにそのコツを覚えた。ドクター・バッド、ウェーク5、ブロ2など、バーナーにはたくさんの名前を使ったが、T-Kidという名が一番有名だった。当時の俺のクルー、TNB(ザ・ナスティ・ボーイズ)には、プゼ、マイク-ダスト、ジョーカー1、ラゼ(またの名をクーパー)、ザ・ロックなどがいた。
1980年、俺は少し休むことにした。いろいろなことがあり、あまりにも暴力が過ぎると感じていたから。1年ほど活動を休止していたが、あるとき、ギャラリーでグラフィティが展示されるようになったことを知り、興味をもった。サム・エッセスのスタジオに招かれ、他のアーティスト、例えばドンディ、ゼファー、フーツラ、SE3、Ne、ケース2、コズ-207などと一緒に描いたんだ。そこにいた誰もが、まさにクレイジーだったよ!それは史上初のグラフィティ・コレクションで、広範囲にわたるものだった。
その後はノー・モア・トレインというプログラムに参加し、地下鉄の車両に描いて捕まった子供たちと一緒に活動した。いわゆるポジティブ・コミュニティ活動だ。クリロンや大手企業から、14番街の改札口を掃除する仕事や、壁に絵を描いたりして、報酬をもらったな。
そうした活動をしばらくやっていたが、グラフィティに引き戻され、82年から85年にかけて、再び地下鉄の車庫で車両に描くようになった。ほんとうに楽しかった!何百もの派手なバーナーを手掛けるうちに、自分のスタイルが出来上がっていった。その過程はすべてインターネットや俺の映画で見ることができるよ。
幸運にも、マーサ・クーパーと『サブウェイ・アート』という本を出したヘンリー・シャルファントが、俺の作品をフォローし写真を撮ってくれた。それがイギリスの一部の人々の目に留まった。特に、俺の親父が心臓発作を起こした後、親父のために制作したグラフィティが注目され、TDKというオーディオ・カセットのブランド企業から、宣伝のためロンドンに来て壁に描いてほしいと依頼されたんだ。それを機にヨーロッパでも制作するようになって、それ以来、時間があればロンドンに行ってるよ(笑)。
グラフィティに関してですが、他の近隣地区との競争のようなものはあったのですか?
ハハハ。年がら年中だよ!だからこそ、グラフィティはこれほど進化し、ポピュラーになったんだ。グラフィティは誰の心にも響くアートで、コミュニケーションの手段なのさ。ゴースト・ヤード(伝説的なグラフィティ制作の場/地下鉄の車庫)で車両にT-Kidのグラフィティをしても、それがどこに行くのか、クイーンズかマンハッタンか、それともブルックリンに行くのかはわからない。ある時その電車が通り過ぎるのを、俺の仲間のソニックが見て、すぐに彼自身も地下鉄車両にグラフィティをするようになった。ブロンクスにソニックのグラフィティのある車両が入ってくると、俺も猛烈に取り組む、ということの繰り返しだった。
キャラクターや様々な文字を創り出すこともあるけど、何といってもグラフィティは電車に俺の名前を描き残す、ということに尽きるね。その媒体は動くものでなければならず、俺の名前が、ある地点から別の地点へと巡っていくようにする必要があるんだ。誰もがそれに夢中になった。ドンディ、リー… みんなドンディの話をしていた。彼は上手かったけど、その才能が炸裂したのはマーサ・クーパーが彼の写真をたくさん撮ってからのことだった。リーも間違いなく最高のアーティスト。ファブ・ファイブ・フレディではなく、ファビュラス・ファイブ・リーだ!(訳注:ファブ・ファイブ・フレディは1970~1980年代に活躍したグラフィティ・アーティスト、ヒップホップMC。1990年代以降は、テレビや、ミュージックビデオプロデューサーとして活躍)
彼は映画「ワイルド・スタイル」の主人公ですね。
そのとおり! 誰も彼が何を描いているのかは知らず、実際彼1人でやっていた。この映画のタイトルは、脚本を書いたチャーリー・エーハンが、ゼファーという男の持つ特定のスタイルをワイルド・スタイルと呼んだことに由来すると言われてるけど、実際は違う。
ワイルド・スタイルとは、グラフィティの巨匠ステイシー168と、彼のクルーのジミー・ハハ、バック、チチ133などのこと。実は、ゼファーに「クルーに入らないか」と誘われたんだけど、そのときトレーシーに「銃を持っているのか?」と聞かれた。俺が否定すると、彼は「とんでもない奴だ!」と言った。実にトレーシーらしい!
グラフィティやそのテクニックを知らない人のために、いくつか教えてください。「バーナー」や「ホール・カー」とは何ですか?
ええと、バーナーというのは1つのスタイルのことで、文字が組み合わさったり、つながったりした複雑なスタイルのこと。メカニカル、ロボティック、オーガニック、バブル、といったスタイルがあり、カラー・スキームもある。地下鉄が動くと炎が燃え立つように見えるところからバーナーと呼ばれてるのさ。地下鉄がホームに到着すると、陽の光に包まれて、バーン!というふうに光が放たれてるように見えるんだ。
ホール・カーとは、地下鉄の車両を上から下、前から後ろまで全部塗ること。また、窓の下を塗ることを「ウィンドウ・ダウン」という。このウィンドウ・ダウンには、「端から端まで」、「前から後ろまで」など、さまざまな種類がある。また、1枚のパネルの上に、スローアップやタグを付けたりもする。
古い世代は若い世代にグラフィティを教えるのですか?
俺はトレーシー168からグラフィティを教わった。その前はパドレ・ドスから学んだ。パドレはヘスス・クルスと呼ばれていた。俺は彼から描くことを学んだ。彼はトレーシーにインスパイアされていたが、彼が特に影響を受けたのはグラフィティのゴッドファーザーとされるフェーズ2で、バブル、メカニカルといったすべてのスタイルを創り出した人物。フェーズ2が描くのを見てパドレは学んだ。パドレは俺に文字の書き方、矢印の位置、そして特にそれらをどのように組み合わせるかを教えてくれたんだ。
トレーシーには77年に出会った。 彼から教わったのは、「自分のスタイルを持ち続ければきっとうまく」ということだった。彼は俺の中に何かを見出してくれていた。俺は特にスプレーの使い方や、グラフィティの構成、市場価値といったことを学んだ。彼らは俺の先生だった。そしてパドレは俺のメンターだった。
スプレーですね。それが最初のペイントツールだったのですか?
最初はマーカーを使っていた。その後、スプレーを使うようになった。一番好きだったのはレッドデビル… それはまさに最高級品で、本当に素晴らしいツールだった。
クライロンは色の種類は豊富だったけど、最高の塗料とは言えなかった。カバー力が足りないので、まず白を塗り重ねる必要があった。
ラストオリウムもあった。ゲフィンのファットキャップ(幅広のトレース用に端をいじったもの。後に様々なサイズが製造され販売された)との相性が良く、簡単に手に入った。当時はスキニー、スーパースキニー、ファット……といったキャップは販売されていなかったから、すべて自分で作る必要があった。
地下鉄について話すとき、とても活き活きしていますね!
もちろん。それは俺の人生であり、俺の文化。車両に描くことは俺にとって至上の喜びだ。ブレイクダンスのグラフィティを描いた時、その車両が96丁目駅の2番線に到着したとき、俺たちはホームにいた。そこにはたくさんの人がいて、みんなが拍手してくれた。間違いなく、信じられないような瞬間だった。ニューヨークはグラフィティを愛している。それは街の文化の一部だ。
話は変わりますが、どういった経緯で、ビリエ=ル=ベルの95部門のワークショップに関わるようになったのですか?
シャトレ駅の柵に登って描いていたら、クラス担任に引率された子供たちが通りかかった。子供たちが「描きたい」と言ったので、俺はいくつかポイントを教えてあげた。それを見た先生が、自分のクラスに来て教えて欲しい、と言ってくれたんだ。子供たちはグラフィティやストリートアートが大好きだ。彼らは自分自身を表現したい、自分を解き放ちたいと思っているが、ビリエ=ル=ベルには多くの問題があり、簡単なことではなかった。
しかしそれが、彼らの置かれている環境だ。そんな環境にいたら、悪い方向に向かってしまうかもしれない。俺は子どもたちに、「ペイントやダンスをしたいなら、他の場所でやればいいし、たまにここに戻ってくればいい。」と言った。彼らが正しい方向に向うように、そっと後押しをしてあげることが必要なんだ。
フランスとは特別な関係にあるようですが…
フランスは大好きな国だ。80年代後半にロキシーで出会った、最初のフランス人のグラフィティ・アーティストがバンドーで、その後ミストに出会った。ミストがニューヨークに来たときのこと。そして90年代に入ってから、コンゴやカラーズといったマックのクルーと知り合い、彼らの招きでパリのコスモポリット・フェスティバルに参加した。そこでファフィやトゥールーズのクルーとも出会った。フランスは俺の第二の故郷だ。
そうなのですね。パリではウゼー宅に滞在するそうですが、お二人はどのようにして出会ったのですか?
レストラン、ガレ・エクスプレスで、共通の友人であるヤン・ラズを通じて知り合った。ウゼーは才能あふれる人物だ。極めて優秀で、グラフィック・ソフトの使い方もよく知っている。これは今や重要なツールだ。彼は喜んで迎え入れてくれて、俺たちは友達になった。誰かと一緒にいて、街を探検するのは本当に楽しい。
POSCAのスタッフに引き合わせてくれたのも彼だ。これはニューヨークではありえない、素晴らしい機会だった。俺はPOSCAをキャンバスや電車に使うのが大好きだ。(T-Kidがペイントした3D車両はネクスト・ストリート・ギャラリーで公開予定。)
あなたのドキュメンタリー映画「ザ・ナスティ・テリブル・ティーキッド(The Nasty Terrible T-Kid)」も公開されていますね。これはどのようにして実現したのですか?
2005年に本を出したんだけど、カリフォルニアのサイン会で、映画制作会社ラブ・マシーン・フィルムズのカーリーという人物に出会った。彼のインタビューを受け、それがとてもうまくいったので、一緒に映画を作ろう、という話になった。俺は当時の写真をたくさん持っていたので、映画にするのもそれほど大変ではなかった。自分の作品を大きなスクリーンで見られるのは、素晴らしいことだね。
興味深いことに、アメリカでは、新しい文化が非常によく記録されていますね。たくさんのアーカイブがあって…
ビデオやあらゆる種類のカセットにたくさん収録していたんだけど、信じ難いことに、前妻がほとんどすべて処分しちまった。俺たちはペイントしに行くときは常にカメラを携帯し、とにかくすべてを撮影している。それをどうするかはわからないんだけどね。
作品を保存してくれているコレクターもいる。また作品をフォローしてくれる人も何人かいるので、作品を整理して保管することができているよ。これらは全く異なる業界の人々だ。実はウォールストリートのトレーダーが、ラディソンホテルの関係者を紹介してくれた。彼らは私にロビーの絵を描いてほしいと言った。もちろん喜んで引き受けるよ!!
若い頃はただ夢中で描いていたが、今はペイントをしたら報酬をもらいたい。俺は歴史の一部!ミスター・オレンジ、いやドナルド・トランプから描いて欲しいと言われれば、報酬さえもらえれば、彼がメキシコとアメリカの間に築こうとしている壁に、いつでも喜んで描かせてもらうよ。その際には「WELCOME!」と書くつもり。「あなたの母国へようこそ!」と。